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名も無い教員が、淡々とした生活を淡々と記録。 (追記:2016年11月13日) ときどき世情に対して思うことが生じるので、そのときは適当な放言を記録。
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試験問題を作るために作図をしている。スライドや教科書に出ている図を修正したり作図したりしている。意外と手間がかかるが、作図の間に内容の確認ができるので、余計な時間を費やしているという感覚はない。今日も継続して、終わったところで論文の改訂をする。

昨日は朦朧としていたが、上記作業を中心に粛々を手を動かしていた。

相変わらず寒い。寒気が停滞しているから。今週、雪が沢山降っている(と思われている)場所に行く。詳細を見ると、目的地の周辺部は曇っているだけで雪は降っていないらしい。安心しているが、当日、どうなるのか…。

閲覧者が少ないことを利用して、適当なことを書くか。

現場主義という言葉が頻繁に使われる。現場から得られる知見の重要性に主眼があるのだろうが、時々、理論に頼っている人を蔑む時にも使われる。現場の事も知らずに何か発言しないように戒めたりすることがある。そして、この現場主義を信奉する人は意外と多いと思う。世間で散見される現場主義に対して不可思議なものを感じるので、簡単に思いつく事を書いてみる。

最初に断っておかなくてはいけないが、実践知は貴重であり、経験の積み重ねで見えてくることは沢山あると思う。しかし、これは理論の積み重ねでも全く同じで、実務や現場といった場面に限った事ではないと思う。理論とか現場という言葉の持つ雰囲気(理論という言葉は机上の空論などという悪い印象を与え、現場というと地に足付いた着実な営みを想像させること)がおかしな誤解を生んでいるような気がしている。これらは対立するものではなく相互補完するものなのだが、あたかも理論派対現場派といった珍妙なことが起こっているのではないかと想像している。街の探索を例にとってみれば、相補関係である事は容易に想像つく。探索する際、地図だけ持っても意味がなくて実際に現場に行かないと意味がない。しかし、何も持たずに現場に行くと適切な行動が取れずに路頭に迷う。勿論、総当たりで探索すれば何時かは終わるだろうが異常に無駄な時間を要する。ここでの地図が理論で、実際に探索するのが現場へ行くことになるのだろう。こういう事は分かっているのだろうけど、両方を上手く調和させられる人というのは意外と少なく、そのどちらかだけに長けている人というのが殆どなのかもしれない。そうすると、実際に活動するのが好きな人からすれば、地図だけ眺めている人間は頭でっかちで嫌みな奴に見えるし、地図を眺めるのが好きで状況は把握できているけど動くのが嫌いな人間からすれば、地図も持たずに活動する人間は無策で愚かな奴に見えるから、ある種の衝突が起こるのだろう。

研究でも、事例研究をしていて、沢山の事例を観察してきた人が現場主義を標榜することが多い。この様な人たちが他の研究手法を採用している人に対して、現場をみるようにと説教することが多い。これら「現場主義」に共通するのは、経験年数という先輩後輩の関係を覆せないものを正当化する営みではないかと思っている。古典を読め、という言説にも通ずるところがある。結局は、経験年数という営みの深さとは無関係なものに胡坐をかくための言い訳として使われていることが多いと思っている。こういう裏にある意図が見え隠れするような言説を聞くと、がっかりさせられるし、精神の調和が乱れている時には怒りを感ずることもある。ここからは偏見だが、過去の教訓や歴史の解釈といった「粗い理論」は好きなのに、理論家が知恵を絞って洗練させた理論は嫌いという人は多い。歴史などは読めば分かったつもりになれて、そこから融通無碍に教訓のようなものを引き出せる自由度がある。しかし、理論になったものには頑健なものほど自由度が低く、理解するための障壁が高くなる傾向がある。私のような阿呆としては、己の能力が至らない事を受け入れた上で理論の重要性を理解することが必要だと思うのだが、あまりそういう理解はされていない気がする。

上記の例で特に奇妙なのは、事例研究する人が、現場を見ない奴は駄目だと他分野の人間に能書きを垂れることだと思う。事例研究を積み重ね、大凡の体系化をすることによって、他の研究者などが余計な労力を投入することなく当該事例の様子を把握できるようにすることが彼らの存在意義だと思うのだが、現場を見ろといって他分野の研究者を蔑むのは、発話者の研究は信頼できないから自分でも確認しろ、と言っているようにも聞こえる。むしろ、事例研究を主にしている人が他分野の存在を尊重するのであれば、己に対して現場を見ろと活を入れることはあっても、他人には強要するのは自己否定になりかねない。分業という発想が無く、自分の世界を構築し、その中での主人として振舞いたいという願望がそうさせるのだろう。この段落の内容、現場主義を標榜している人を理論家に置き換えて、理論家を事例研究者に置き換えても、意外と同じような事になるのではないかと思っている。このような印象を抱いているので、私は、自身の研究手法それ自体を信奉するのはあまり有益ではないと思っている。

思いつきで適当なことを書いてしまった…。もう少し思考を整理しないといけないな…。
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