名も無い教員が、淡々とした生活を淡々と記録。
(追記:2016年11月13日)
ときどき世情に対して思うことが生じるので、そのときは適当な放言を記録。
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アパートの最寄り駅にある自動昇降機の配列(左側が上り)と、職場の最寄り駅にあるそれ(左側が下り)とで異なっているので、うっかり職場から帰るときに左側を駆け上がろうとしたことがある。そうすると、数回ブザーが鳴るので恥ずかしい思いをする(多分、テレビモニターを見ている駅員が笑っているだけだろうが)。
昨日、powerdotの設定に手間取った。結局、先日までに設定したTeXを抹消し、昔使っていたHDDの中身をそのまま移し替えることで対処した。これで、powerdotが使えるようになった。今週末の企画には間に合いそうだ。
今日は、報告書を作る。入れるべき内容は固まっているので、あとは簡単に文章を付加すれば完成するだろう。これが終わったのちに、週末の報告準備をして、飽きたところで別の作業をする(多分、滞っている簡単な計算)。
昨日、powerdotの設定に手間取った。結局、先日までに設定したTeXを抹消し、昔使っていたHDDの中身をそのまま移し替えることで対処した。これで、powerdotが使えるようになった。今週末の企画には間に合いそうだ。
今日は、報告書を作る。入れるべき内容は固まっているので、あとは簡単に文章を付加すれば完成するだろう。これが終わったのちに、週末の報告準備をして、飽きたところで別の作業をする(多分、滞っている簡単な計算)。
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昨日は報告書を作成していた。ある程度の形はできてきた。今日中にやるつもりだったが、今日は別の作業をしたくなったので、そっちを片づける。この作業に飽きたら、金曜日の発表準備をする。英語での発表なので胃がキリキリするのだが(嘘)、それは仕方がない。ただ、この作業をする前に、powerdot をDLしなくてはいけない(転勤によるPCの強制交換をしたから)。今は兎に角、自分のできることを粛々とこなすしかない(それ以上のことはできないし・・・)。
これを書いているときに共著者が入ってきた。それだけ。
これを書いているときに共著者が入ってきた。それだけ。
珍しく報告書を作っている。強制的に作業した成果物(過去3年分)が役立っている。もう少し大変な作業になるかと思っていたが、それほどでも無かった。重要な作業であるのは間違いないので、遺漏が無いように気をつけて行う。
上記作業に目処が立ったところで文章作成など、普段通りの地味な作業をする。昨日、共著者から文献リスト(垂直取引関係)が入っていたので、これに基づいて粛々と作業をすれば最低限のものは出来上がるだろう。慣れている分野なので、過去の蓄積が役立って、文章はすぐにできる(切り貼りの部分があるから作業の節約ができる)。
上記作業に目処が立ったところで文章作成など、普段通りの地味な作業をする。昨日、共著者から文献リスト(垂直取引関係)が入っていたので、これに基づいて粛々と作業をすれば最低限のものは出来上がるだろう。慣れている分野なので、過去の蓄積が役立って、文章はすぐにできる(切り貼りの部分があるから作業の節約ができる)。
今日の内容は印象で語っているだけなので、全く根拠はありません。
社会科学の一分野を専門として扱うようになり、幾つかの職場で働き、そこで色んな方の論文などに触れる機会があったけど、方法論が好きな人が多いという印象を受けた。自分らの使っている分析手法について理解することは重要なことなんだけど、その道具を掘り下げることに熱心すぎるのではないかという印象を受けた。しかも、その方法論の議論をする際に、殆どの場合、ある方法論を貶めながら自身が信じる方法論を持ちあげているような気がしている(「ある方法論」は標準の経済学であることが多いという印象を持っている)。結局のところ、研究は、人々が面白いと思う内容を取り上げて、その内容を人々が納得できるやり方で取り扱い、その取り扱い方について説明できれば、それで良いのではないかと思っているので、ある手法を貶めるような議論をみると心が萎える。料理人でいえば、包丁の評論家が沢山いる中で、ある包丁を使って何か料理を作ったときに、○○包丁で作った料理だからダメだという意味不明な事をこれら評論家から言われているような感じか(これは被害妄想か)。自分を含めて目くそ鼻くそを嗤うの水準で研究をやっているんだから、何とか己の情けない研究水準を高めることに精進すればいいのではないかと思うんだけど、包丁評論家が多く、しょうもない足の引っ張り合いをしているような気がする。
しょうもないことを書き続けたけど、今日も粛々と計算などをして、入力して、共著者に文章を送れるようにするか。どうせ阿呆な私は、こんなことしか出来ないし・・・・。
社会科学の一分野を専門として扱うようになり、幾つかの職場で働き、そこで色んな方の論文などに触れる機会があったけど、方法論が好きな人が多いという印象を受けた。自分らの使っている分析手法について理解することは重要なことなんだけど、その道具を掘り下げることに熱心すぎるのではないかという印象を受けた。しかも、その方法論の議論をする際に、殆どの場合、ある方法論を貶めながら自身が信じる方法論を持ちあげているような気がしている(「ある方法論」は標準の経済学であることが多いという印象を持っている)。結局のところ、研究は、人々が面白いと思う内容を取り上げて、その内容を人々が納得できるやり方で取り扱い、その取り扱い方について説明できれば、それで良いのではないかと思っているので、ある手法を貶めるような議論をみると心が萎える。料理人でいえば、包丁の評論家が沢山いる中で、ある包丁を使って何か料理を作ったときに、○○包丁で作った料理だからダメだという意味不明な事をこれら評論家から言われているような感じか(これは被害妄想か)。自分を含めて目くそ鼻くそを嗤うの水準で研究をやっているんだから、何とか己の情けない研究水準を高めることに精進すればいいのではないかと思うんだけど、包丁評論家が多く、しょうもない足の引っ張り合いをしているような気がする。
しょうもないことを書き続けたけど、今日も粛々と計算などをして、入力して、共著者に文章を送れるようにするか。どうせ阿呆な私は、こんなことしか出来ないし・・・・。
昨日は地味に計算をしていた。ある程度のものは出てきたような気がする。簡単に結果をまとめてしまうのが最善ではないかと思うので、サッサと入力しようと思う。これ以外に文章を読んだが、まだ、完全に読み切れていないので、引き続き行う。
相変わらず、計算+結果打ち込み+文章作成を基本として生活している。この3要素で生活の殆どを説明できるのではないかと思う。傍から見れば楽しみのない生活ということになるのだろうが、これは仕方がない。趣味が無いのだから・・・・。
相変わらず、計算+結果打ち込み+文章作成を基本として生活している。この3要素で生活の殆どを説明できるのではないかと思う。傍から見れば楽しみのない生活ということになるのだろうが、これは仕方がない。趣味が無いのだから・・・・。